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仕事を辞めたいと思ったら

その日の午後、お約束の時間になってつながった声は、最初から少し急いでいた。ひととおりのご挨拶を終えるより先に、「仕事を辞めたいんです」とおっしゃった。もう決めています、とも。

朝、駅の改札の前で足が止まってしまったのだと、その方は話してくださった。定期券を持った手が、どうしても前に出ない。そのまま数分立っていて、結局その日は会社へ向かったのだけれど、頭のなかでは一日じゅう辞める算段をしていた、と。

似たお話は、これまでにも何度かうかがってきた。
細かい事情はそれぞれ違っても、改札の前で止まる、という場面はよく出てくる。
体のほうが先に返事をしている、という言い方がいちばん近いのかもしれない。

仕事を辞めたいという気持ちを、否定しないこと

わたしはまず、辞めたいと思うこと自体を止めようとはしなかった。その気持ちには、たいてい相応の理由がある。
何年もかけて積み重なったものが、ある朝ふいに形になっただけなのだから、それを軽く扱ってはいけないと思っている。

かわりに、ひとつだけうかがった。辞めたあと、どんな一日を過ごしていたいですか、と。

電話の向こうで、少し長い沈黙があった。そのあとで、「そこまでは考えていませんでした」と、正直におっしゃった。その正直さが、わたしにはとても健やかなものに感じられた。

決める前に立ち止まるというのは、迷いつづけることではない

辞めたい気持ちと、辞める決断は、同じ速さで進まなくていい。そんなふうにお伝えしたと思う。気持ちのほうはもう走り出している。けれど決断は、もう少しゆっくり歩いてきても間に合う。

立ち止まるというのは、決めないでおくことではない。
辞めたい理由と、それでも続けてきた理由を、両方きちんと自分の手のひらに乗せてみる時間のことだ。
片方だけを見て出した答えは、あとになって「あのとき本当はどうしたかったのだろう」と、自分に問い直すことになりやすい。

数週間ほどして、その方からご連絡をいただいた。結論から言えば、辞めることに変わりはなかった。
ただ、時期を三か月ずらして、次に進みたい方向をひとつ決めてからにしたのだという。文面の落ち着きが、最初の日の声とはずいぶん違っていた。

改札の前で足が止まる朝は、誰にでも訪れうる。あの一歩が出ないことは、弱さの証しではなく、まだ言葉になっていない何かが先に動いている合図なのだろう。
立ち止まっていたあの数分が、その方をいちばん遠くまで運んだのだと思う。

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