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時間を無駄にしたと感じるとき、過去の経験をどう考えればいいのか

三年かけて資格の勉強を続けたのに、結局受からなかった。十年勤めた会社で積み上げたものが、転職先ではほとんど役に立たなかった。何年も通った習いごとを、ある日ふとやめてしまった。そういう時間を振り返ったとき、「あの時間は何だったのだろう」という問いが浮かぶことがある。

もっと早く別の道に進んでいれば。あの頃の休日を、別のことに使っていれば。そう考えはじめると、失ったのは結果だけではなく、人生のうちの何年分かの時間そのもののように思えてくる。かけたお金なら金額で数えられるけれど、時間は取り戻しようがない。だから、時間を無駄にしたという感覚は、後悔のなかでもとりわけ重たいものになりやすいのだと思う。

「すべての経験には意味がある」と言い切れるだろうか

過去の経験をこんなふうに後悔するとき、よく耳にするのが「無駄な経験はない」という言葉だ。たしかに、この言葉に支えられる場面はある。けれど少し引いて眺めると、この言葉にはひとつの癖があるように思う。

経験の意味というのは、たいてい、あとから振り返ったときに見つかる。うまくいかなかった仕事の経験が次の仕事で生きた、という話は、次の仕事がうまくいったから語られる。
つまり「意味があった」という評価は、その後の展開に支えられていることが多い。その後がまだ見えない人や、見えてもぱっとしない人にとって、「意味はあるはずだ」という言葉は、慰めというより、まだ提出していない宿題のように響くことがあるのかもしれない。

それに、意味を探そうとすると、人はつい、見つかりそうな意味のほうへ記憶を寄せていく。「忍耐力がついた」「人の痛みがわかるようになった」。どれも嘘ではないのだろう。けれど、それを口にした瞬間、自分の実感とのあいだに薄い膜が一枚はさまる感じがすることもある。本当は、ただ悔しかった。ただ、くたびれた。その手触りのほうが、確かだったりする。

結果が出なかったことと、時間が無駄だったことは同じなのか

ここで、ひとつ分けて考えてみたいことがある。「望んだ結果が得られなかった」ということと、「その時間に価値がなかった」ということは、似た文に見えて、別のことを言っている。

資格の勉強でいえば、前者は試験の合否についての評価で、後者は、朝早く起きて机に向かった日々や、図書館からの帰り道まで含めた、三年ぶんの毎日についての評価だ。合否はひとつの結果で決まる。けれど毎日のほうは、ひとつの物差しでは測りきれない。

もちろん、毎日のほうを細かく見ても、やはり何も残っていないと感じることはあると思う。それならそれで、その評価もまた本人の実感としてある。わたしが言いたいのは、何かを得ていたはずだ、ということではない。結果という一本の物差しで、時間全体を採点してしまっていないか、ということだ。物差しを分けたうえで、それでも無駄だったと思うなら、その評価は最初のものより、少しだけ正確になっているのかもしれない。

今だから分かることを、当時の自分に求めていないか

過去を振り返って「なぜあんな選択をしたのだろう」と思うとき、わたしたちは、今の自分が持っている情報で、当時の自分を採点していることが多い。答えを知ったあとで、解答用紙を見返しているようなものだ。答えを知っている目には、まちがいがくっきり見える。

けれど当時の自分は、その答えを持っていなかった。業界がこれほど変わるとは知らなかったし、自分の体力がどこまで続くかも、家族の事情がどう動くかも、まだわからなかった。その時点で手に入った情報と、そのときの状況のなかで選んでいた。

だからといって、当時の選択がすべて最善だったと言うつもりはない。手元にあった情報を見落としていたことも、気持ちに押されて判断を急いだこともあるだろう。見分けたいのは、その違いのほうだと思う。「当時の自分にも見えていたはずのこと」と、「今になってはじめて見えたこと」。前者は振り返る材料になるけれど、後者まで当時の自分に背負わせてしまうと、過去の評価はいつまでも実際より厳しくなっていく。

過去の評価と、これからの選択は分けて考えられる

そして、もうひとつ。過去の時間をどう評価するかと、これから何を選ぶかは、別々の問題として扱えるのではないか、とわたしは考えている。

経済学には「サンクコスト(埋没費用)」という言葉がある。すでに支払ってしまい、この先どう選んでも戻ってこない費用のことだ。合理的な判断では、「これだけ払ったのだから」という理由だけでこの先の選択を決めないほうがいい、と考えられている。

時間にも、似たところがあるように思う。「ここまで三年もかけたのだから」と続けることを選ぶとき、その理由は、取り戻せない三年のほうにある。ただ、これは過去に費やしたものをすべて無視する、という意味ではない。三年の勉強で身についた知識や、十年の仕事で覚えた段取りは、今も手元に残っている。それはこれからの選択を考えるときの、れっきとした材料になる。分けておきたいのは、今も手元にあるものと、もう戻らない費やした分のほうだ。前者はこれからの判断に入れていい。けれど後者を「もったいないから」という理由に使うと、判断は少しずつ過去に引っぱられていく。続けるかどうかを決める材料は、今の自分の手元にあるものと、これからの三年をそこに使いたいかどうか、のほうなのかもしれない。

反対に、「あの三年は無駄だった」と結論づけたからといって、同じ分野から離れなければならないわけでもない。無駄だったと思いながら、もう一度挑む人もいる。意味があったと思いながら、まったく別の道へ進む人もいる。過去の評価と未来の選択は、片方が決まればもう片方も決まる、という関係にはなっていない。

あの時間が無駄だったかどうかは、この先もときどき考えるのだろうと思う。その評価は、年月とともに変わることもあれば、変わらないこともある。ただ、明日の時間をどう使うかは、その評価とは別の材料で決められる。過去の評価は過去の帳面に、これからの選択はこれからの帳面に。そのふたつを別々に持っておきたいと思っている。

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