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人生はたかが数十年。諦めることについて考えてみた

「どうせ無理だから」「今さら遅いし」「失敗したら恥ずかしいので」「わたしにはできないと思う」。
ご相談の終わりぎわに、ふとこぼれる言葉には、どこか似た響きがある。
友人とお茶をしているときにも、電車で隣り合った誰かの会話にも、同じ言葉がまじっている。
振り返れば、わたし自身も以前は、この言葉をよく口にしていた。

あるとき、ふと思った。人生はたかが数十年なのに、どうして自分から、まだできることまで諦めてしまうのだろう。
まだできることがあるのなら、やってみてもいいのではないか。今日はそのことを、少しゆっくり考えてみたい。

人生は、思っているほど長くない

「人生は長い」と言われることもあれば、「人生は短い」と言われることもある。
実際に指を折って数えてみると、わたしたちが過ごせるのは、せいぜい数十年。夏を迎える回数も、桜を見上げる回数も、思っているほど多くはない。

限りがあるということは、すべてを叶えられないということでもある。
すべての人に理解されることも、過去をやり直すこともできない。そう書くと寂しく聞こえるかもしれないけれど、わたしはこの事実に、むしろ肩の荷を下ろしてもらったような気がしている。

諦めることは、悪いことばかりではない

「諦める」は、どちらかといえば弱い言葉として扱われがちだ。途中で投げ出す、負けを認める、そんな響きがある。けれど、どうにもならないことにまで力を注ぎつづけていると、心はすり減ってしまう。
ある程度は「仕方がない」と諦めることも、限りある人生をやりくりするための、大切な知恵なのだと思う。
「諦める」はもともと「明らめる」、物事をはっきり見きわめることだった、という話を聞いたことがある。できることとできないことを見きわめて、できないほうを静かに手放す。そう考えると、この言葉はずいぶん風通しのよいものに見えてくる。

自分にできることまで、先回りして諦めなくていい

ほどけた手で、もう一度つかめるものまで一緒に手放してしまうことがある。
「どうせ無理」「今さら遅い」と、まだ試してもいないことを先回りして諦めてしまうのは、少しもったいない気がしている。

やってみたかったこと。これからの選択。行ったことのない場所へ足を運ぶこと。
まだ出会っていない誰かとの出会い。一度うまくいかなかったことに、もう一度手を伸ばすこと。
今の自分にできる、ほんの小さなこと。
こちら側は、限りある人生の中で、まだ諦めなくてもいいもののように思う。

人生を、数十年かけて遊ぶゲームだと思ってみる

わたしはときどき、人生はある意味で、数十年かけて遊ぶゲームのようなものなのかもしれない、と考える。本当に苦しい場面が、ゲームのたとえで片づくとは思っていない。それでも、この見方に助けられることがある。
ゲームは、やってみなければわからないことばかりで、失敗もするし、思い通りに進まない場面もある。
途中で道を変えてもかまわない。ただ、コントローラーを置いたままでは、画面の中では何も起こらない。そして、遊べる時間には限りがある。そう思うと、「だったら、もう少しやってみてもいいのではないか」という気持ちが、じんわりと湧いてくる。

できることを、できるうちに

とはいえ、大きな夢を掲げる必要も、人生を無駄にしないよう力む必要もないのだと思う。
今日できることを、ひとつだけやってみる。気になっていたことに、少しだけ手をつけてみる。
会いたかった人に、短い連絡を入れてみる。行ってみたかった場所へ、次の休みに出かけてみる。
そのくらいの大きさで十分なのだろう。

全部をどうにかしなくてもいい。でも、自分にできることまで諦めなくてもいい。完璧に生きるより、実際に生きてみる。
今夜、しばらく連絡をしていなかった友人に、短いメッセージを送ってみようと思う。

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