何もしない時間が、不安になるとき
何も決められない。何も始められない。仕事をしていない、新しいことにも手をつけていない。以前ほど頑張れず、ただ時間だけが過ぎていく。そういう時期に入ると、人は「自分は停滞しているのではないか」「時間を無駄にしているのではないか」と、自分を点検しはじめる。
何かをしているときには、前に進んでいる手ごたえがある。だからこそ、何もしていない時間は、手ごたえのなさそのものが不安になるのだと思う。何もしたくない自分にとまどいながら、何をすればいいかわからないまま、カレンダーだけがめくられていく。
人生には「階段の踊り場」がある
わたしはこういう時期のことを、ひそかに「階段の踊り場」と呼んでいる。
階段を上っている途中の踊り場では、上にも下にも進んでいない。平らな床の上に立っているだけだ。けれどそこでは、少し立ち止まって息を整えたり、手すりに手を添えて次の向きを確かめたりできる。踊り場で折り返すからこそ、階段は高いところまで続いていける。
そして何より、踊り場にいるからといって、階段を上ることをやめたわけではない。今は平らなところにいる。それだけのことなのだと思う。
止まっているように見える時期にも、意味があるのかもしれない
仕事を辞めたあと、次の仕事がまだ決まっていない時期。恋愛が終わって、次の誰かに出会うまでの時間。
何かを始めたいと思いながら、まだ始められずにいる時期。
以前の自分ではなくなったけれど、まだ新しい自分にもなりきれていない時期。人生の方向がわからなくなって、地図を失くしたように感じる時期。
こうした時間は、外から見ると何も起きていないように見える。本人も「わたしは何をしているんだろう」「このままでいいのかな」「周りはみんな進んでいるのに、自分だけ止まっている気がする」と思ってしまう。ご相談のなかでも、人生が停滞しているように感じている、と打ち明けてくださる方は少なくない。
けれど、そういうお話をうかがっていると、表からは見えない場所で、何かが静かに組み替わっている気配を感じることがある。止まっているように見える時間と、本当に何もない時間は、同じではないのかもしれない。
次に進む前には、立ち止まる時間もある
人には、進む時期と、立ち止まる時期と、方向を変える時期がある気がしている。そのどれもが、人生の一部だ。
何もしない時間は、もしかすると次に進むための準備期間なのかもしれない。
とはいえ、休めば次のきっかけが来るとか、立ち止まればそのぶん成長できるとか、そういう約束ができるわけではない。その時間があとでどんな意味を持つのかは、その最中にはわからないことのほうが多い。
わたし自身、ずいぶんあとになって振り返り、「あれは踊り場だったのか」と気づいた時期がある。
何もしない時間を、すぐに「無駄」と決めなくてもいい
だから、何もしない時間に意味があると、急いで証明しなくてもいいのだと思う。
意味があると言い切る必要も、無駄だったと結論づける必要もない。今は何の意味があるのかわからない。けれど、わからないからといって、無駄とは限らない。そのくらいの、どちらにも決めない距離を置いておきたい。
何もしないことを、積極的に肯定したいわけではない。ただ、何もしていない自分を、すぐに否定しなくてもいい。その違いは小さいようでいて、呼吸のしやすさがずいぶん変わる。
今、人生が止まっているように感じるあなたへ
前に進めない気がしているとき。もしかすると、あなたは止まっているのではなく、次の階段へ進む前の踊り場にいるのかもしれない。
いつ次の段に足をかけるのか、それがどちらの方向なのかは、わからない。
わからないまま、今はただ踊り場にいる。それだけでもいいのだと思う。
その時間を「何もしていない」「遅れている」「無駄にしている」と、決めつけなくてもいい。
階段の踊り場にいる時間も、人生の一部
古い建物の階段には、踊り場に小さな窓がついていることがある。
上り下りの途中でふと足を止めると、そこから思いがけない景色が見えたりする。駆け上がっているあいだには、きっと気づかなかった景色だ。
踊り場で過ごす時間も、階段の一部で、人生の一部。窓の外では、今日も雲がゆっくりと形を変えている。
