朝の電車で、知らない人と肩を並べて揺られる。職場で何人もの人と言葉を交わす。帰りに寄ったスーパーは、夕方の人でごった返している。家に帰れば、家族のその日の機嫌が、玄関を開けたとたんに伝わってくる。わたしたちは一日のうちに、思っている以上にたくさんの人と場所に触れている。
その一つひとつから、わたしたちは目に見えるものだけでなく、目には見えない何かも受け取っている。人の感情の名残り、場所にこもった空気、その日すれ違った誰かの疲れ。
浄化とは、霊的な見方でいえば、そうして知らないうちに自分にまとわりついた、自分のものではないエネルギーを取り除き、本来の状態に戻していくことだ。そしてそれは、何かあったときだけでなく、日々続けてこそ意味があるものだと思っている。
目に見えないものは、自分では気づきにくい
部屋のほこりなら、指でなぞれば白く残る。床の汚れは、光の加減でふと目に入る。見えるものは、気づいたときに取り除くことができる。
けれど、人や場所から受けるエネルギーは、そうはいかない。大勢の人が集まる場所で一日を過ごしたあと、なぜか体がずっしり重い。誰かと長く話したあと、その人の苛立ちがまだ自分の胸のあたりに残っている気がする。張りつめた会議室や、感情が大きく動く話し合いの席を出たあとに、理由のわからない疲れが尾を引く。もちろん、疲れの原因は体の疲労や睡眠不足のこともあるし、すべてを目に見えないもののせいにするつもりはない。ただ、そのなかに、自分のものではない何かが混じっていることもある。わたしは霊的な観点から、そう捉えている。
難しいのは、それが自分の気分や体調とまじり合って、区別がつかなくなることだ。もともと自分が抱えていた重さなのか、どこかで受け取ってきたものなのか。見えないものは、存在を意識していなければ、区別しようという発想そのものが生まれない。霊視でご相談をお受けしていると、その方ご自身のものとは思えない重さが重なっているように感じられることがあるけれど、ご本人はそれを、自分の性格や弱さだと受けとめていらっしゃることもある。
だからわたしは、目に見えないものから影響を受けている「かもしれない」と知っておくこと自体に、意味があると思っている。意識していなければ、受け取ったものは自分の一部として、そのまま持ち歩かれてしまう。意識していれば、少なくとも「これは本当にわたしのものだろうか」と立ち止まることができる。
問題が起きてからではなく、日々浄化するという考え方
浄化というと、嫌なことがあったときや、調子をくずしたとき、何か特別な出来事のあとに行うもの、と考えられていることが多い気がする。それも浄化のひとつの形だと思う。けれど、わたしが何より大事にしているのは、何も起きていない日の浄化のほうだ。
理由は単純で、目に見えないものの影響は、それと気づくほど大きくなるまで、自分ではわからないことが多いと感じているからだ。気づいたときには、もう何日分、何週間分も重なっていることもある。ひとつひとつは小さくても、毎日少しずつ受け取り、置いていかなければ、積もっていくのは自然なことなのだろう。
日々浄化する習慣があれば、知らないうちに重なったものを、そのまま抱え込まずに見直す機会を持てる。わたしは、そこに日々浄化する意味があると考えている。
日々の浄化には、もうひとつ意味がある。毎日、自分の状態に目を向けることになるという点だ。
今日は誰と会ったか。どんな場所にいたか。帰ってきた自分は、出かける前の自分と同じだろうか。浄化を習慣にしていると、一日の終わりに、その問いを自然と一度くぐることになる。それは、自分と自分以外のものとの境目を、毎日確かめなおす作業でもあるのだと思う。
怖がらせたいわけではない。浄化を一日休んだからといって何かが起きるわけではないし、受け取ったものがすべて良くないものというわけでもない。人と関わり、場所に身を置けば、何かを受け取るのは当たり前のことだ。だからこそ、受け取ることを恐れて人や場所から距離をとるのではなく、受け取ったら手放す、という循環を毎日の暮らしに持っておきたい。人と会うことを、身構えずに楽しむためにも。
浄化は、何かを足すことではなく、不要なものを取り除くこと
エネルギーを整える、というと、何か良いものを取り入れて、今より上の状態を目指すことのように聞こえるかもしれない。けれど、わたしが考える浄化は、足し算ではなく引き算に近い。
人はもともと、その人らしい澄んだ状態を持っていると、わたしは思っている。
たとえば休日の朝、まだ誰とも言葉を交わしていない時間に、お湯をわかしながら、今日は何を食べたいか、どこへ行きたいかが素直に浮かんでくる。自分が何を心地よく感じ、何に疲れているのかが、そのまま自分に聞こえている。わたしが「澄んだ状態」と呼んでいるのは、そういう状態のことだ。
霊的な見方をすれば、そこに、日々の関わりのなかで、他人の感情や場所の空気が少しずつ重なっていく。重なったものが増えると、さっきまで聞こえていた自分の感覚が、聞き取りにくくなる。何を好きで、何を望んでいるのか。その声が、ほかの誰かの声にまぎれてしまう。
だから、新しい何かを足す前に、まず取り除く。取り除けば、足さなくても戻ってくるものがあるように思う。何かを手に入れるための浄化ではなく、もともとあった感覚を取り戻すための浄化。
そう考えると、浄化は特別なことではなく、日々の暮らしの中で意識していくものなのだと思う。
浄化を特別なことにせず、日々の意識にする
浄化の方法にはさまざまなものがあり、それはまた別の記事で書いていきたい。ただ、浄化の大切さは、方法よりも先に、浄化をどう捉えるかのほうにあると思っている。浄化は、困ったときに取り出す道具ではなく、毎日の暮らしのなかに置いておく意識なのだと。
顔を洗うのに、特別な理由が要らないのと同じで、浄化も、何かあったからするものではなく、一日を終えるときに自然と手が伸びるものであっていいのだと思う。毎日人と会い、場所に身を置いて暮らしている以上、それを続けることが、自分を自分のままに保つ支えになってくれるはずだと、わたしは信じている。
日々浄化する。それが、目に見えないものと付き合いながら暮らすうえで、わたしがいちばん伝えたいことだ。
