送信ボタンを押したあとに、もう一度その文面を開いてしまう。言い方がきつくなかっただろうか、と。
待ち合わせに相手が遅れているとき、道順の伝え方が悪かったのかもしれない、と考えはじめる。
集まりから帰る道で、その日いちばん自分が話しすぎた場面だけを、やけに正確に思い出す。
どれも、誰かに責められたわけではない。責めているのは、いつも自分のほうだ。
自分を責める癖は、話を早く終わらせる方法でもある
長いあいだ、なぜこの癖はこんなに手放しにくいのだろうと思っていた。
いまは、少しわかる気がしている。自分のせいにすると、話が早く終わるからだ。
相手の事情や、その日の巡り合わせのせいだと考えると、自分ではどうにもできない部分が残る。その宙ぶらりんが落ち着かない。けれど自分のせいということにすれば、少なくとも直しどころははっきりする。責めることは、手のつけようのなさから抜け出すための方法として覚えたものなのだと思う。
だから、この癖を長く持っている方は、投げ出さずに何とかしようとしてきた方でもある。ご相談にいらっしゃる方を見ていても、責める声が強い方ほど、物ごとをよく見ていらっしゃる。
やめようとしないで、少しずつ薄める
とはいえ、そのままにしておくと消耗する。かといって、やめようと決めるのもうまくいかない。今日も責めてしまった、という反省がまた一つ増えるだけで、それは結局、責めることの続きなのだった。
わたしがしているのは、分けることだけだ。返事が来ない、というのは事実。嫌われた、というのは解釈。同じ出来事に、この二つが混ざって置かれている。それを二つに分けて、事実のほうだけを残す。
分けたところで、解釈のほうが消えるわけではない。ただ、こちらが勝手に足したものだと分かるだけで責める材料はずいぶん減る。全部は減らない。半分くらいだ。それでも、毎回半分になるならそのうち薄まっていく。
以前のわたしは、うまくいかなかった日の夜に、その日のやりとりを何度も再生していた時期がある。いまはほとんどしない。やめようと決めた日があったわけではなく、気づいたら回数が減っていた。だから、一気に手放せなくてもよいのだと思っている。
夕方、部屋が暗くなってきたのに明かりをつけそびれている時間がある。そんな日にふと、今日は一度も再生しなかったな、と気づく。気づいたあとも、しばらくそのまま座っている。
