食器棚のいちばん手前に、金継ぎをした小皿がひとつある。縁のところが一度欠けて、その線が細い金色で継がれている。もう十年以上使っているけれど、割れる前より今のほうが好きだ。
いただいたのは、しばらく会っていない方からだった。当時わたしはその方と特別親しかったわけではない。年に一度か二度、用があるときに連絡を取る程度の間柄で、これといった深い話をした記憶もない。
それでも、その方から届いた包みを開けたときのことは、いまでもよく覚えている。手紙は一枚もついていなくて、ただ小皿だけが入っていた。余計な説明がないことが、なんだかその方らしいと思った。
ご縁のある人とは、間が空いても変わらない関係のこと
その後も、その方とは何年も連絡を取らない時期があった。こちらから近況を報告することもなく、相手からも来ない。それでも、たまに用があって連絡をすると、二年ぶりでも三年ぶりでも、前回の続きから話が始まる。
ご縁のある人とはどんな関係なのか、と考えるとき、わたしはいつもこの感じを思い出す。会う回数でも、付き合いの長さでもない。間が空いたぶんを埋め直す作業が要らない、というところなのだと思う。
しばらく会わないと気まずくなる相手というのは、たしかにいる。それは相手が悪いのでも自分が悪いのでもなく、たぶん、続けるために何かを足しつづける必要がある関係なのだろう。それはそれで大切な間柄だけれど、疲れやすくはある。
続けようと力を入れなくても、続いていく
ご縁というと、長く続くことや、離れないことが良いのだと思われやすい。けれどわたしは、離れても悪くならない関係のほうを、ずっと信頼している。
途切れたように見えて、必要なときにまたつながる。何年も間が空いたあとで、ふとした用事で連絡が来る。そういうことが、実際に何度も起きる。そのたびに、縁というのは自分の意思だけで結んだり切ったりできるものではないのだな、と思わされる。
だから、離れていった方のことを、うまくいかなかった関係として片づけなくてもよいのだと思っている。いまはただ、間が空いているだけかもしれない。それに、こちらが必死につなぎ止めた関係より、放っておいても残った関係のほうが、あとになって深いところで効いてくる。
欠けた線が、いちばんきれいなところになる
金継ぎの小皿を眺めていると、割れた線がいちばん目を引く。もともとの模様よりも、継いだあとの金色のほうが美しい。あの継ぎ目がなければ、この皿はとっくに棚の奥にしまわれていたはずだ。
人との関係も、たぶん似ている。一度うまくいかなくなったところ、間が空いてしまったところ。そういう線が入っている関係のほうが、なぜか長く残る。何ごともなかった関係より、少しだけ強い。
明日は、その方に久しぶりに短い便りを書いてみようかと思っている。用事はない。小皿をまだ使っています、とだけ書けば、それで十分に伝わる気がしている。
